全体構成案(シーン概要)
- シーン1「皇后の慈悲心」
聖武天皇を支える光明皇后の人柄と、当時の社会情勢(疫病や貧困)が描かれる。 - シーン2「施薬院設立への道」
光明皇后が発案し、実際に動き出した施薬院の始まり。その苦労と周囲の反応。 - シーン3「悲田院―救いの手を差し伸べる場所」
孤児や貧しい人々を受け入れる“悲田院”設立の背景と、そこに集う民の姿が描かれる。 - シーン4「一筋の光」
皇后の活動が民衆に与える希望、そして社会福祉の源流ともいえる取り組みが浸透していく様子。
登場人物紹介
- 光明皇后(こうみょうこうごう)
聖武天皇の皇后。貧しい者や病人を救うため、施薬院・悲田院の設立に尽力する。 - 聖武天皇(しょうむてんのう)
前エピソードでも登場した天皇。仏教による国の安定を目指す一方、皇后の慈善事業を支援している。 - 橘(たちばな)の雪盛(ゆきもり)(架空人物)
エピソード1、2にも登場した若き官人。律令国家の運営に携わりつつ、光明皇后の福祉事業を実務面でサポートする。 - 中臣(なかとみ)の幸枝(ゆきえ)(架空人物)
宮廷に仕える女官。皇后の活動に感銘を受け、施薬院・悲田院の現場にも顔を出す。 - 病人や孤児、貧民たち
疫病や貧困に苦しむ人々。朝廷から十分な支援を受けられず、日々の糧を求めている。
本編
シーン1.皇后の慈悲心
【情景描写】
西暦730年代後半、奈良の都・平城京。大路(おおじ)にはまだ朝の光が淡く差し込み、石畳(いしだたみ)を行き交う人々の姿がまばらに見える。先の疫病や飢饉の影響で、活気にあふれていた都もどこか沈んだ雰囲気を帯びている。
宮中の廊下では、光明皇后が侍女たちに囲まれながらも、どこか心ここにあらずという様子。ふと縁側(えんがわ)から外の庭を眺めていると、宮廷外で苦しむ人々の姿を思い浮かべる。
【会話】
- 【光明皇后】
「(小声で)都の外には、病に倒れた者や貧しさに喘ぐ者が多いと聞きました。特に孤児や年老いた者は自分で食を得るすべもなく……。」 - 【中臣の幸枝】
「はい。わたくしも街に下るとき、荒衣(あらごろも)に身を包んだ人を見かけます。物乞いをして生き延びているようでした。」 - 【光明皇后】
「何とかしたいのです。私にできることは、今のうちに少しでも行っておきたい。この国が仏の教えで救われるなら、まずは“行い”が大切ではないかと……。」
光明皇后の眼差しには決意が宿り始めている。後に「施薬院」と「悲田院」という福祉施設を設立する、その端緒がここにあるのだ。
シーン2.施薬院設立への道
【情景描写】
数日後、皇后の勅(みことのり)が一部の官人に下り、平城京の一角に「施薬院(せやくいん)」を設ける計画が動き出す。施薬院は病人に薬や治療を施す施設。これまで、貴族や上級僧侶のみが専門的な医療を受けやすかったが、皇后は民衆にも治療の機会を開こうと考えたのだ。
ある晴れた日の午後、空き地となっている場所に集められた木材や薬草の束。橘の雪盛は実務を任され、現場を奔走していた。
【会話】
- 【橘の雪盛】
「(地図を眺めながら)ここを施薬院の建物に、あちらを薬草を調合する部屋に……医師はどこから呼び寄せればいいのでしょう。人手も薬も相当数が必要です。」 - 【中臣の幸枝】
「わたくし、皇后さまから預かった薬草の名簿を持っています。すでに使い方が定まっている薬もあるので、専門の僧医(そうい)に協力を仰ぎましょう。」 - 【橘の雪盛】
「ありがたい。皇后さまは大丈夫なのですか? こんなに大きな事業、ご自身で資金を出していると伺いましたが……。」 - 【中臣の幸枝】
「ええ、皇后さまは自らの財産の一部を投じておられるそうです。陛下(聖武天皇)も支えてくださってはいますが、官人たちの間でも『民衆への施しはやり過ぎではないか』という声があると……。」
雪盛はその言葉に少し眉をひそめる。朝廷内には、光明皇后の活動が“過度な慈善”だと批判する声もあるらしい。だが雪盛は、この施薬院が病で苦しむ人々にとってどれほど大切かを知っている。
シーン3.悲田院―救いの手を差し伸べる場所
【情景描写】
施薬院が少しずつ形になり、人々に薬や診療を施し始めると、その噂が都や周辺地域に広まった。「皇后が貧しき者にも薬を分け与えているらしい」「孤児を集めて世話しているそうだ」――。宮中では、さらに「悲田院(ひでんいん)」という施設の設立が検討されていた。孤児や老弱者など、生活に困っている人々を一時的に保護し、衣食を支援する場だ。
ある夕暮れ、空が朱色に染まる頃、光明皇后は悲田院の建設予定地を視察していた。荒地が広がり、人々の住む建物もまばらで、寒々しい風景だった。
【会話】
- 【光明皇后】
「ここであれば、施薬院とも近い。病に苦しむ人だけでなく、身寄りのない子どもたちにも手を差し伸べられるでしょう。」 - 【橘の雪盛】
「皇后さま、悲田院となるとさらに費用も労力もかかります。正直、反対の声も少なくありません。『そこまで民に施す必要があるのか』と……。」 - 【光明皇后】
「どうしても必要です。仏の教えには、貧しき者、弱き者を放っておいてはならぬとあります。私ができる限りのことをしたいのです。」 - 【中臣の幸枝】
「私もお手伝いします。女官である前に、一人の人間として、困っている人を見過ごせないのです。」
光明皇后の言葉に迷いはなかった。その強い意志を見た雪盛は、改めて彼女の“慈悲”がただの同情ではなく、行動を伴う信念なのだと感じるのだった。
シーン4.一筋の光
【情景描写】
施薬院と悲田院が本格的に運営を始めてから数か月。朝の陽光が差し込む庭先では、薬草を煎じる香りが漂い、子どもたちの笑い声が聞こえる。一時は行き場を失った孤児たちが、悲田院の片隅で遊んでいるのだ。痩せこけた頬は少しふっくらし、薄汚れた衣から綺麗な布をまとった姿へと変わっている。
施薬院の建物には、敷布団に横たわる病人たちが静かに休んでいる。いまだ治療の難しい病も多いが、少なくともここでは薬と看護を受けられるのだ。
【会話】
- 【病人A(うわごと気味に)】
「私はもう、生きていていいのだろうか……。」 - 【看護役の僧医(そうい)】
「何をおっしゃいます。皇后さまがあなたに薬を用意してくださっていますよ。少しでも早く良くなるよう、しっかり休んでください。」
戸口のそばでは、光明皇后が薬壺(やくつぼ)を手にして、僧医と話し合っている。彼女の表情はかすかな疲れを帯びているが、それ以上に穏やかで優しい。
【会話(続き)】
- 【中臣の幸枝】
「皇后さま、今日は町の商人が食糧をいくばくか寄付してくれました。悲田院の子どもたちにも十分行き渡りそうです。」 - 【光明皇后】
「商人の方々も協力してくださるのですね……ありがたいことです。これをきっかけに、支え合う心が広がってくれたら。」 - 【橘の雪盛】
「(感慨深げに)皇后さま、最初は反対の声もありました。ですが、こうして人が集まり、助け合う姿を見ると、福祉というのは“施し”以上の力があるのだと感じます。」 - 【光明皇后】
「私一人の力など小さなもの。でも、その小さな光を信じ、人々がともに手を差し伸べれば大きくなると……そう思うのです。」
日の光が差し込む施薬院の一室には、救われた人の笑顔があった。悲田院で賑やかに遊ぶ子どもたちの姿があった。光明皇后の活動は、のちに社会福祉の源流とも言われる意義を持つ。
こうして、奈良時代の都に“小さな光”がともされ、次第に大きな波紋を広げていくことになる。
あとがき
本エピソードでは、光明皇后が設立した「施薬院」と「悲田院」に焦点を当て、奈良時代における社会福祉のはじまりを描きました。
当時は疫病や飢饉が頻発し、貧富の格差も拡大していました。そんな中で、皇后が自らの財産を投じて弱き者を救う場をつくったことは、大きな反響を呼びました。もちろん批判もありましたが、それ以上に“お互いを思いやる心”が社会全体に伝わっていったという点は特筆すべきでしょう。
これらの施策は単に慈善事業にとどまらず、後の日本における福祉や医療制度の原点の一つともいえます。次回以降、さらに発展していく奈良時代の文化や政治の動向とともに、皇后の慈悲がどのように受け継がれていくのかにもご注目ください。
用語集(歴史を学ぶうえで重要な用語の解説)
- 施薬院(せやくいん)
病人やけが人に対して薬や治療を施すための施設。光明皇后が中心となって設立し、一般民衆が治療を受けられる数少ない場所となった。 - 悲田院(ひでんいん)
孤児や貧しい老人など、生活に困窮する人々を収容・保護する施設。同じく光明皇后が設立に深く関与した。 - 光明皇后(こうみょうこうごう)
聖武天皇の皇后。仏教への深い信仰と民衆への慈悲心を持ち、福祉事業や寺院建立など積極的に社会活動を行った。 - 僧医(そうい)
僧侶でありながら医療行為を行う者。薬草の知識や治療の技術を身につけ、寺院や施薬院などで人々を救済した。 - 福祉(ふくし)
現在でいう社会福祉の原型。個人や団体、国が、貧困や病気などで苦しむ人を支援する制度や活動を指す。 - 貧富の格差
奈良時代において、貴族や豪族は豊かに暮らす一方、農民や下級層が厳しい生活を強いられた状況をさす。
参考資料
- 『続日本紀』現代語訳
- 『光明皇后と奈良の福祉事業』(奈良女子大学史料)
- 中学校社会科教科書(東京書籍・教育出版など)
- 奈良文化財研究所 発掘・研究報告
- 各種歴史ドキュメンタリー映像資料
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