全体構成案(シーン概要)
- シーン1:「天武天皇の政治改革――律令体制への道」
- 壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)。
- 中央集権を強化し、天皇中心の国家体制(律令制)の基礎づくりを進める。
- シーン2:「持統天皇の即位――藤原京への遷都」
- 天武天皇崩御後、皇后である鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)が持統天皇として即位(690年)。
- 694年、飛鳥から藤原京へ遷都し、新時代の都づくりが本格化する。
- シーン3:「藤原京で花開く文化――仏教・制度・芸術」
- 律令国家の整備に伴い、政治・文化・芸術が急速に発展する。
- 仏教の庇護、戸籍・税制の整備、儀式や祭礼の華やかさなどを描写。
- シーン4:「文武天皇・元明天皇――次世代の治世」
- 持統天皇から文武天皇、さらに元明天皇へと皇位が継承される。
- 大宝律令(たいほうりつりょう)の制定(701年)や平城京遷都(710年)を視野に入れた動き。
- シーン5:「平城京への遷都――奈良時代の幕開け」
- 710年、元明天皇が平城京へ遷都を行い、奈良時代が始まる。
- 飛鳥・藤原の時代を総括し、新時代への期待を示して幕を閉じる。
登場人物紹介
- 天武天皇(てんむてんのう)
前エピソードの壬申の乱(672年)で勝利し、673年に即位。中央集権体制を強化するため律令制の基礎を築く。 - 持統天皇(じとうてんのう)
天武天皇の皇后。天武崩御後に即位し(690年)、藤原京(694年)への遷都を実現するなど、政治・文化を大きく動かす女性天皇。 - 文武天皇(もんむてんのう)
持統天皇から譲位を受け、697年に即位。後に大宝律令を公布(701年)し、さらなる制度整備を進める。 - 元明天皇(げんめいてんのう)
文武天皇の母。文武の死後、即位し(707年)、平城京遷都(710年)を断行。奈良時代の幕開けを告げる。 - 藤原不比等(ふじわらのふひと)
中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子。文武・元明両朝に仕え、大宝律令の制定や平城京遷都を支える実力者。 - 豪族・廷臣たち
天武・持統朝以降の律令国家整備に携わり、官位を受けて政治に参加する。都の移転や新制度にさまざまな思惑を抱える。 - 民衆・職人・僧侶たち
藤原京造営や律令施行に動員される人々。新しい都や文化に期待を寄せつつ、負担も背負う存在。 - 案内役の女官アヤ(架空)
(前エピソードからの継続)朝廷の動きを間近で見守り、藤原京の繁栄と民衆の声を伝える役どころ。
本編
シーン1.天武天皇の政治改革――律令体制への道
【情景描写】
西暦673年、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)。壬申の乱を制して即位した大海人皇子は、天武天皇として新体制の強化に取りかかる。朝堂には、豪族や僧侶、役人たちが集まり、壮麗な装飾のもとで新たな礼式が行われていた。玉座に座する天武天皇は、落ち着いた口調で、豪族たちに向けて方針を示す。
【会話】
- 【天武天皇】
「壬申の乱では多くの流血があった。二度とあのような争いを繰り返さぬためにも、我が王権を中心とし、明確な法律と制度を整えねばならぬ。律令(りつりょう)を整える準備を始めよう。」 - 【廷臣A】
「陛下のお言葉、まことに。豪族が勝手に領地を拡大するのではなく、天皇が人民を治める仕組みをきちんと定めれば、国の秩序が保たれましょう。」 - 【天武天皇】
「うむ。さらに、仏教の庇護や寺院の整備も進める。国の精神的支柱となるよう、僧侶たちにも協力を仰ぎたい。」 - 【僧侶】
(深く礼をして)「承知しました。仏教の教えをもって、人々に安寧と道徳を説きます。陛下の御心に添い、国を支えて参りましょう。」 - 【天武天皇】
「よい。朝廷も“八色の姓(やくさのかばね)”を定め、豪族の序列を整理する。血筋や家柄におごることなく、功績ある者を正しく評価していこう。」
こうして天武天皇は、壬申の乱後の混乱を収束し、豪族社会の仕組みを再編しながら律令国家へ向けた礎を築き始める。
シーン2.持統天皇の即位――藤原京への遷都
【情景描写】
天武天皇が在位数年ののち崩御(686年)し、皇后であった鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)が即位の準備を進める。やがて690年、彼女は持統天皇(じとうてんのう)として即位し、さらなる改革を推し進める。飛鳥の地に立つ持統天皇は、天武天皇の遺志を継ぎ、中央集権化と都の整備を進める決意を固める。その先に見据えていたのが、藤原京(ふじわらきょう)への遷都であった。
【会話】
- 【持統天皇】
「夫(天武天皇)が遺した改革を止めるわけにはいかぬ。新しい都を造り、飛鳥よりも広く計画的な京で、この国を束ねるのだ。もう準備は整いつつあるのか?」 - 【廷臣B】
「はい、藤原の地(現在の奈良県橿原市周辺)は条坊制(じょうぼうせい)という形で道路を碁盤目状に整え、大陸の都城にならった造りにいたします。694年を目標に完成させる所存です。」 - 【女官アヤ】
(興味津々に)「条坊制……。まるで大陸の長安(ちょうあん)や洛陽(らくよう)みたいな都になるということでしょうか。想像するだけで壮大ですね。」 - 【持統天皇】
「そう、壮大な都を築くことで、我が国の威信と秩序を示す。天武が目指した律令国家は、国の内外に誇るべきものとなるはず。人民には負担もあろうが、どうか協力してくれ。」 - 【廷臣B】
「もちろんです。陛下のお志に応えるため、我々も力を尽くします。近隣の豪族や民衆を動員し、建築資材や人材を集めております。」
694年、ついに都は飛鳥から藤原京へ移される。これが日本で初めての本格的な都城(都市計画を取り入れた都)とされ、律令国家の象徴となっていく。
シーン3.藤原京で花開く文化――仏教・制度・芸術
【情景描写】
藤原京(694年~710年)。四方を山々に囲まれた平野に、条坊制で区画された整然たる街並みが広がり、中央には朝堂院や宮殿がそびえる。官人や僧侶、商人が行き交い、賑わう市場には大陸から運ばれた exotic な香料や絹織物が並ぶ。寺院や豪族の邸宅も立ち並び、まさに「新しい都」の活気に満ちている。
【会話】
- 【女官アヤ】
(市場を見渡しながら)「なんて賑やかな都なんでしょう! 飛鳥の頃とは比べものにならないほど人も物も集まって……。官人の服装も華やかさを増したような。」 - 【廷臣C】
「官人には冠位が与えられ、色や装束の規定も律令に定められている。仏教もますます盛んで、寺院の行事や法要には多くの僧侶が参列するようになりましたな。」 - 【僧侶】
(経典を抱えながら)「持統天皇さまの厚いご庇護もあり、仏法が人々の心を鎮めております。都での儀式や祈祷(きとう)によって、国全体が安定するよう祈っています。」 - 【廷臣C】
「藤原京の建設によって、道も広く整備され、地方からの献上品や税の運搬もスムーズになりました。戸籍の整備が進むことで、税や兵役の徴発もしやすくなったのです。」 - 【アヤ】
(感心した様子で)「都の拡大に伴い、工芸品や建築技術も進歩しましたよね。宮殿の壁画や仏像の細工など、大陸の影響が色濃くて、とても優美です!」 - 【廷臣C】
「ええ。これはまさに律令制がもたらす効果の一つ。中央集権的な仕組みの下、文化と制度が一体となって発展しているわけです。」
都の発展とともに、人々の心も豊かになっていく。だが、一方で移転に伴う負担や、中央集権による豪族の力の削減など、社会の変化に戸惑う者も少なくなかった。
シーン4.文武天皇・元明天皇――次世代の治世
【情景描写】
持統天皇は孫にあたる文武天皇(697年即位)へ譲位し、引き続き院政的に政治を支える。文武天皇の時代には、藤原不比等(ふじわらのふひと)らが活躍し、701年には大宝律令(たいほうりつりょう)が完成。律令国家の大枠が固まり、官人の組織や刑罰・行政の制度がより明確になる。そして、文武天皇の死後、母である元明天皇が即位(707年)。次第に「新たな遷都」への動きが加速していく。
【会話】
- 【文武天皇】
(公卿を集めて)「大宝律令の完成は、わが国の律令制がひとまず形を成したことを意味する。今後はこれに基づき、官人がそれぞれの役職を全うせよ。」 - 【藤原不比等】
「陛下、この律令を広く行き渡らせるためにも、さらなる都の整備が必要でしょう。藤原京に加え、もっと規模の大きい都へ移すという案も浮上しております。」 - 【文武天皇】
「うむ。私の祖母・持統天皇が築いた藤原京も素晴らしいが、国の拡大を考えると、もう一段大きな都が必要なのかもしれぬ。」
文武天皇が崩御すると、元明天皇が即位。彼女は後を継ぎ、藤原京をさらに発展させつつ、新しい都の可能性を探り始める。
- 【元明天皇(げんめいてんのう)】
「文武が遺した大宝律令を活かし、さらなる政治の安定を図らねばなりません。藤原不比等よ、都の移転先として平城(へいじょう)の地を検討すると聞きましたが……。」 - 【藤原不比等】
「はい。平城は奈良盆地の北部に位置し、地形も広く、交通の便もよい。大陸との交流を続けるにも好都合かと。周辺の寺院や文化も豊かです。」 - 【元明天皇】
「そうか……。私が在位中に平城京へ遷都を実行し、奈良時代を開く。それこそが、この国をさらに発展させる道なのだろう。」
シーン5.平城京への遷都――奈良時代の幕開け
【情景描写】
710年、ついに都は藤原京から平城京(なら)へ移される。条坊制をさらに洗練させ、南北に走る朱雀大路(すざくおおじ)を中心とした壮大な都城が構想され、その姿は大陸の都にも引けを取らない規模となる。新たな都の誕生は、人々に大きな期待と希望を与える一方、新しい税制や労役への戸惑いも伴う。そうした思惑が交錯する中、奈良盆地の空には春の穏やかな陽光が差し込み、彩り鮮やかな花が咲き乱れていた。
【会話】
- 【元明天皇】
(朱雀大路を見渡しながら)「ここが平城京……。広大な土地にきちんと区画を定め、宮殿や官庁を設け、寺院や市(いち)を配置する。まさに大陸の都と同じ規模が実現できた。」 - 【藤原不比等】
「はい、陛下。これで奈良の地が、日本の政治・文化の中心となるでしょう。藤原京から続いた律令体制を、この地でさらに発展させてまいります。」 - 【廷臣たち】
(感慨深げに)「多くの人力と資材を投じた甲斐がありましたね。飛鳥から藤原、そして平城へ……。わが国は急速に変わりました。」 - 【元明天皇】
「その変革の礎を築いたのは、天武・持統両天皇や文武天皇、そして大化の改新を起こした先人たち。私もその歩みを継ぎ、この奈良の都で日本をさらに豊かにしたい。」 - 【女官アヤ】
(都の入り口で民衆の様子を見ながら)「大勢の人が行き交っています。これからいろんな文化や技術が集まって、もっと素敵な時代になりそうですね……。」
こうして710年、平城京への遷都をもって飛鳥~藤原の時代はひとつの幕を下ろす。奈良時代という新たな章が開かれ、日本の国家はより確立された律令制のもとで発展していく。かつて飛鳥の地で萌芽した改革の数々は、この地でさらなる花を咲かせることとなる。
あとがき
本エピソード(エピソード6)では、天武・持統朝による国家体制の整備から、藤原京の造営(694年)を経て、平城京遷都(710年)による奈良時代への移行を描きました。
- 天武天皇が壬申の乱に勝利した後、強力な王権を打ち立て、律令制度の基礎を築きました。
- 持統天皇は天武の遺志を継ぎ、条坊制を取り入れた本格的な都「藤原京」へ遷都し、日本の中央集権体制と文化発展を加速させました。
- 文武天皇・元明天皇の時代に整備が進められた大宝律令(701年)は、その後の律令国家の根幹となり、さらに710年に都は平城京へ移されます。これをもって、奈良時代が始まり、仏教や芸術・国際交流がますます盛んになっていきます。
こうして飛鳥から奈良へ至る約100年にわたる歴史の流れは、日本の国家体制や文化にとって大きな転換期となりました。外来文化を取り込みつつ独自の政治制度を整えたこの時代のエネルギーが、後の日本史を彩る多彩な文化と社会の土台になっています。
用語集(歴史を学ぶうえで重要な用語の解説)
- 天武天皇(てんむてんのう)
673年に即位。壬申の乱で勝利し、中央集権を進め、律令制を整える基礎を築いた。 - 持統天皇(じとうてんのう)
天武天皇の皇后。690年に即位し、694年に藤原京へ遷都。女性天皇として政治・文化を牽引した。 - 藤原京(ふじわらきょう)
694年に遷都された、日本初の本格的な都城制(条坊制)を採用した都市。
(現在の奈良県橿原市付近) - 文武天皇(もんむてんのう)
697年に即位。701年に大宝律令を制定し、律令体制の骨格を固めた。 - 元明天皇(げんめいてんのう)
文武天皇の母。707年に即位し、710年に平城京へ遷都を行い、奈良時代の幕開けを告げた。 - 大宝律令(たいほうりつりょう)
701年、藤原不比等らの主導で制定された律令法典。日本の律令国家の根幹となる。 - 平城京(へいじょうきょう)
710年に遷都された都(現在の奈良市付近)。本格的な律令国家の中心地となり、奈良時代が始まる。 - 条坊制(じょうぼうせい)
都市を碁盤目状に区画する都市計画。中国(唐)の都にならった方式で、藤原京・平城京に採用された。
参考資料
- 『日本書紀』(にほんしょき)天武・持統天皇期
- 『続日本紀』(そくにほんぎ)文武天皇~元明天皇期
- 中学校歴史教科書(東京書籍・帝国書院など)「飛鳥時代末期~奈良時代」該当章
- 奈良文化財研究所の調査報告書(藤原京・平城京跡など)
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