【Ep.4】国際社会への躍進 ~ ワシントン体制と日本の外交

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全体構成案(シーン概要)

  1. シーン1:戦勝国となった日本
    • 第一次世界大戦が終結し、日本が“戦勝国”として扱われる中、新聞社でも新しい時代への期待と不安が入り混じる。
    • パリ講和会議のニュースが届き、啓介たちが「国際社会での日本の立場」を意識し始める。
  2. シーン2:21カ条の要求と中国問題
    • 日本が中国への要求(21カ条)を行ったことに対する国際的な反発や国内の議論が描かれる。
    • 啓介が実情を取材し、日本の外交方針に疑問を抱く様子。
  3. シーン3:ワシントン会議への道
    • 戦後の国際秩序を再構築するため、海軍軍縮や中国問題を話し合うワシントン会議が開かれる。
    • 政府関係者(幣原喜重郎など)の発言や日本国内の意見の対立を交えながら、啓介が外交の舞台裏を取材する。
  4. シーン4:国際協調の光と影
    • ワシントン体制が成立し、一時的には協調外交が進むが、日本国内には軍縮や対中国政策への不満もくすぶる。
    • 新聞記事をまとめた啓介の視点から、国際社会での日本の進路を問いかける。

登場人物紹介

  • 山田 啓介(やまだ・けいすけ)[架空]
    東京日日新聞(仮)の若手記者。欧州留学経験があり、国際感覚を持つ。大正という時代の変革を目の当たりにしながら成長を続けている。
  • 松岡(まつおか)[架空]
    東京日日新聞の中堅記者。政治・社会問題に通じており、啓介を指導する先輩的存在。
  • 幣原 喜重郎(しではら・きじゅうろう)
    外務大臣としてワシントン会議など国際外交を牽引する要人。協調外交を推進する立場。
  • 加藤 友三郎(かとう・ともさぶろう)
    海軍大将出身の政治家。ワシントン会議において海軍軍縮に積極的に取り組む。後に首相となる。
  • 外交官・政府関係者(複数・架空)
    ワシントン会議やパリ講和会議に同行する官僚。啓介の取材対象となり、外交の舞台裏を垣間見せる。
  • 市井の人々(複数・架空)
    一般市民や商店主、労働者など。海外の戦況は終わったものの、戦後不況や外交方針に対して様々な意見を持っている。

本編

シーン1.戦勝国となった日本

【情景描写】
1919年、冬。東京日日新聞の編集部は、連日「パリ講和会議」に関する海外通信の情報で溢れていた。欧州で多大な被害をもたらした第一次世界大戦が終結し、日本は連合国側の“戦勝国”として扱われている。ストーブの上で湯気を立てるやかんの音が、せわしない新聞社の空気をほんの少し和ませている。

啓介は原稿用紙を片手に、世界地図を睨みながら思案していた。書類には「ドイツから中国・山東半島の権益を引き継ぐ」「国際連盟の設立」など、大きな見出しが並ぶ。

【会話】

  • 【松岡】
    「パリ講和会議の速報が入ってきた。日本も“戦勝国”扱いで、国際連盟の常任理事国に入るらしいぞ。すごい時代になったもんだ。」
  • 【啓介】
    「明治の頃と比べると、日本がこんなに世界の中心で取り上げられるなんて想像もできませんでしたね。とはいえ、欧州の国々ほどの損害がなかったからこそ参戦できた面もあるようですが……。」
  • 【松岡】
    「そうだな。日本国内じゃ、戦争特需のあとに不況が来るんじゃないかって噂もある。まったく先が読めん。だけど、国際舞台で一気に存在感を高めたのは事実だ。」

パリ講和会議では、実は日本が提案した“人種平等条項”が却下されたという情報も耳に入っていた。国際舞台での日本の位置づけが果たして安定したものなのか、啓介の胸には一抹の不安がよぎる。


シーン2.21カ条の要求と中国問題

【情景描写】
季節は春に移り変わり、やわらかな陽光が東京の町を照らしていた。啓介は駅前の喫茶店で、外務省関係者の一人と密かに会う約束をしている。古びた木製の椅子に座りながら、コーヒーの香りをかいでいると、扉の音がして紳士が姿を現した。

【会話】

  • 【外務省官僚(架空)】
    (小声で)「山田さん、お待たせしました。実は、この前のパリ講和会議の裏側で、中国問題について欧米諸国の批判が高まっていましてね……。」
  • 【啓介】
    「それは、21カ条の要求(※)のことですよね? 中国側だけでなく、欧米諸国からも反感を買っているとか。」※21カ条の要求
    第一次世界大戦中(1915年)、日本が中国に突きつけた要求。山東半島にあるドイツ権益の継承や、中国に対する様々な利権拡大を図る内容が含まれていた。
  • 【外務省官僚(架空)】
    「そうなんです。戦勝国としての立場を利用して、中国からさらに権益を引き出そうという動きが、欧米には“日本の帝国主義”と映ってしまっている。『日本は信用できない』なんて言われだしたら、国際連盟にも悪影響ですよ。」
  • 【啓介】
    「日本国内の世論はどうなんでしょうか? 山東半島の利権を獲得できるなら国益になるという意見もある一方、中国への侵略行為ではないかと疑問を呈する人々もいますよね。」
  • 【外務省官僚(架空)】
    「まさに国内でも賛否両論です。政府が強硬策を続ければ、国際社会での信用を損ねる恐れがある。かといって、今さら権益を放棄したら国内の強硬派から批判を浴びる……。外交ってのは本当に難しい。」

官僚はそう吐露すると、苦い顔のままコーヒーカップを置いた。外では桜がちらほらと咲き始め、平和な春の風景が広がっている。しかし、その裏では国際社会が日本の動向を厳しく注視していた。


シーン3.ワシントン会議への道

【情景描写】
時は1921年。東京の冬は冷え込みが厳しく、時折雪が舞い散ることもある。編集部には「ワシントン会議開催へ!」という大見出しの原稿が並んでいた。海軍軍縮条約や四カ国条約・九カ国条約が話し合われる場になるというのが大筋だ。

啓介は幣原喜重郎など政府高官がワシントンに向かう前の記者会見に出席し、必死にメモを取っている。そこには加藤友三郎や海軍関係者も揃い、各国との軍縮交渉に臨む意気込みを語っていた。

【会話】

  • 【幣原 喜重郎】
    「諸君、世界は大戦の傷跡から回復しようと努力しています。日本としても国際協調を重んじ、一国主義に陥らぬ外交を行わねばなりません。ワシントン会議では、中国問題も含め、各国と話し合いを進める所存です。」
  • 【加藤 友三郎】
    「海軍軍縮というのは、一部の反対意見もありますが、国際関係の安定には必要な選択だと考えています。ただ、日本の安全保障と尊厳もある。簡単に折れるわけにはいきません。」

列席する記者たちが一斉に手を挙げ、矢継ぎ早に質問を投げかける。大国イギリスやアメリカとの海軍制限交渉は、日本にとって主力艦の保有比率をどうするかの重大事だ。啓介は、協調外交を推進したい幣原と、海軍の立場を守りたい軍部との間に微妙な温度差を感じ取った。


シーン4.国際協調の光と影

【情景描写】
翌年、1922年(大正11年)の初頭。ワシントン会議で海軍軍縮条約が結ばれ、日本の主力艦保有比率はアメリカ・イギリスを100とするなら70というラインで妥結した。さらに四カ国条約や九カ国条約によって、中国への対応や太平洋地域の秩序が定められていく。新聞各社は「軍縮成功」「ワシントン体制の成立」などと大きく報じ、「平和への一歩」と評価する向きもあれば、「日本の国防を脅かす愚策」と批判する論調もある。

編集部に戻った啓介は、新たな原稿を作成しながら、様々な声が飛び交うのを耳にする。町からは「国際協調」の夢を語る人もいれば、「海軍が小さくされてしまう」と不満を漏らす者もいた。

【会話】

  • 【啓介】
    (ペンを走らせながら)「松岡さん、これがワシントン体制……。軍縮自体は世界の平和に繋がる可能性もありますが、日本国内には反対意見も根強いですね。」
  • 【松岡】
    「やっぱり軍部の中には不満もあるさ。だが、欧米列強に並んで世界の秩序づくりに参加できたのは、歴史的に大きな前進だと言えるんじゃないか? 少なくとも、日本が国際社会の一員として振る舞う姿勢を示したわけだ。」
  • 【啓介】
    「そうですね。僕が欧州へ留学していた頃には、日本がこんなにも外交面で注目されるなんて想像していませんでした。ただ、21カ条の要求のように、近隣諸国との関係がどうなるかは気になります。」
  • 【松岡】
    「それが“国際協調の光と影”ってやつだろうな。表向きはうまくいっても、利害が衝突すれば再び大きな対立になるかもしれない。俺たち新聞記者は、そういう動きをしっかり見て、伝えていかにゃならんのさ。」

啓介は同意を示しながら、ワシントン会議での決定内容をまとめた原稿に最後の一文を付け加える。
「――大正という時代のもとで、日本は新たな道を歩み始めた。国際協調と国益のはざまで、これからの選択が試されるだろう。」

そして原稿を編集部に回すと、窓の外を仰ぐ。灰色の雲が少しずつ晴れて、冬の淡い陽光が射し込み始めていた。新しい世界秩序への期待と不安――それらが入り混じる空模様のように、日本の未来もまた不透明ではあるが、確かに新しい局面を迎えようとしているのを感じる。


あとがき

本作「国際社会への躍進 ~ ワシントン体制と日本の外交」は、大正時代を描くエピソード4として、第一次世界大戦後の日本が国際舞台で大きな存在感を放ち始めた様子を中心に描きました。

  • パリ講和会議
  • 21カ条の要求と中国問題
  • ワシントン会議(1921~1922年)
    これらはいずれも、大正期の日本外交を語るうえで欠かせない要素です。日本が連合国の“戦勝国”として権益を拡大する一方、欧米列強や中国との摩擦を生み、国内でも軍縮や対外政策をめぐって賛否が分かれました。

「協調外交」に積極的だった外務大臣・幣原喜重郎は、後の昭和期にも同様の路線を進めることになりますが、当時の軍部や強硬派の一部からは不満が高まります。これらの不一致がやがて日本の針路を大きく左右していくことを思うと、大正時代の外交は後の歴史への伏線とも言えるでしょう。

主人公・山田啓介が取材を通じて見聞きする国際舞台の動向は、現在の私たちが抱く「国際協調」「平和」「軍縮」などのキーワードを考えるうえでも、学ぶ価値があります。物語を楽しみながら、当時の日本が置かれていた国際的立ち位置や、外交の難しさに思いを馳せていただければ幸いです。

次回:【Ep.5】未曾有の惨事――関東大震災が変えた社会と政治


用語集(歴史を学ぶうえで重要な用語の解説)

  • パリ講和会議(1919年)
    第一次世界大戦後の講和条約(ヴェルサイユ条約)を締結するために開かれた国際会議。日本は戦勝国として参加し、国際連盟の常任理事国になるなど地位を向上させたが、人種平等条項は認められなかった。
  • 21カ条の要求(1915年)
    第一次世界大戦中に日本が中国に対して出した要求。山東半島のドイツ権益を継承するとともに、中国国内での日本の権益拡大を図る内容で、国際的に反発を招いた。
  • ワシントン会議(1921~1922年)
    戦後の国際秩序を協議するためアメリカが主催した国際会議。海軍軍縮条約をはじめ、四カ国条約・九カ国条約が結ばれ、日本は軍縮を受け入れる代わりに、欧米列強と対等に近い地位で話し合いに参加した。
  • 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)
    大正・昭和期の外務大臣や首相を務めた政治家。国際協調路線(協調外交)を推進し、ワシントン会議にも出席した。
  • 海軍軍縮条約(ワシントン海軍軍縮条約)
    主要列強国の主力艦保有量を制限した条約。日本は米英を10とした場合に7という制限を受け入れたが、一部軍部からは不満が上がった。

参考資料

  • 中学校社会科教科書(大正時代:国際社会への進出と外交政策の項)
  • 『大正期国際外交史』
  • 『幣原喜重郎と協調外交』
  • 国立国会図書館デジタルコレクション(ワシントン会議関連文書・当時の新聞記事)

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